飯田覚兵衛について
秀吉も讃えた三傑の武勲
肥後加藤家中において、秀吉から特に武勇を讃えられた3人を「加藤家三傑」と呼ぶのはご存知だろうか?
小西行長の天草一揆制圧に加勢し目覚ましい活躍を見せた3人は、その武勲を認められ、時の権力者である秀吉から、清正を通じてそれぞれ白鳥毛・黒鳥毛・白黒鳥毛の長槍を賜ったと伝えられている。
三人三様の活躍と性質
三傑の中でも、もっとも多く逸話が残されているのが、飯田直景(覚兵衛)(いいだ なおかげ(かくべえ))である。覚兵衛は、幼い頃から清正と共に育った竹馬の友といわれており、その生涯に亘って清正を守り支えた。武勇にすぐれ、特に槍術には特筆すべきものがあったという。また、土木普請も得意とし、熊本城築城の際は、その類稀なる才覚を発揮した。約180mにも及ぶ三の丸の百閒(ひゃっけん)石垣など、彼の功績は今も城内の随所に見ることができる。また、平成17年(2005)に復元された「飯田丸五階櫓」も覚兵衛の名を冠しているが、これは覚兵衛が建設を行い、守備を担当したことが由来となっている。
長男・直国は熊本藩士、次男は福岡藩中老、三男・何右衛門は熊本藩士があり、いずれも子孫は明治以降まで続いた。直国の子孫に井上毅がいる。

飯田家
我が飯田家の初代は覚兵衛の三男何右衛門です。加藤家没後細川家に仕え私で15代目になります。
細川家の資料から
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細川家の資料では12代目の治部丞(静)まで載っています
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そして13代目(おばあちゃん)美棹(みさお)(故)
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14代目(父)完(たもつ)は石川県在住
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そして私(豊彦)が15代目になります 滋賀県在住
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弟(雅彦)妹(麻弥)も石川県在住
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14代目 飯田完
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令和6年6月18日没
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法名 光月院浄西修院完居士
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飯田家法名台帳
飯田家分家初代 何右衛門から 12代静までの没年数と法名が記載されている台帳です
天保2年9月18日に200回忌
明治13年9月18日に飯田覚兵衛の250回忌法要を行った記載があります

飯田家の家紋
飯田家の家紋は丸に抱き茗荷です。

飯田覚兵衛の資料
名古屋市秀吉清正記念館所蔵

飯田覚兵衛の自画像
凄く強そうな顔ですね。(笑)

加藤清正并十六将之図
一番下の右側に覚兵衛が描かれています。

加藤家十将図
一番下の左に描かれています。

飯田覚兵衛の墓
本当の墓は京都の正運寺にあります
飯田覚兵衛は晩年京都に戻り 二条城近くで生涯を終えました
京都四条大宮を上がった(北上)正運寺に本妻と後妻の墓と共に眠っています
毎年9月の命日には欠かさずお墓参りしています
京都に出向いた際には是非寄って下さい
正運寺(浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀仏 洛陽三十三所観音巡礼第26番札所
1600年、加藤清正の重臣、飯田覚兵衛を開基とし、深誉を開山として創建された。
熊本の墓は記念碑
阿弥陀寺(熊本市中央 区)にある「飯田覚兵衛」の墓は記念碑です。
俺は権現

「覚兵衛物語」
加藤清正の家臣、飯田覚兵衛の話。
加藤清正と幼なじみであったことから、自分の意にそまぬまま侍となり、その用兵の才と武勇により、清正に取り立てられていき、加藤家の家老となった覚兵衛。
いつかは、武士を辞めたと思いつつ、清正との縁により、辞めるに辞めれないまま年を過ごしてきた覚兵衛だが、清正の死後も、子の忠広を頼むと言われ、そのまま加藤家に仕えることになる。
しかし、忠広の暗愚な言動に、覚兵衛は衝突し、ついに加藤家を辞することになる。
そして、忠広の暗愚さにより、加藤家は取りつぶしとなるが、それを聞いて、自分の生涯は一体何のためにあったのだと覚兵衛は号泣する・・・という話。
加藤清正(上)(下)

文治派石田三成、小西行長との宿命的な確執、大恩ある豊臣家危急存亡の苦悩——英雄豪傑の象徴のように伝えられるこの武将の鎧の内にあった人間の素顔を剔抉する傑作歴史長篇。
この上、下にも飯田覚兵衛の武勇伝が紹介されています。
黒田藩の飯田家屋敷跡の大銀杏

大銀杏は、清正公をしのんで、覚兵衛が普請奉行として築いた熊本城(別名・銀杏城)にあった銀杏の苗木を、この地に移植して育てたものです。樹齢は約400年。現在では福岡市が指定する保存樹になっています。
明治天皇

私のおばあちゃん(13代目)美棹が6歳の時、明治35年二度目の熊本に行幸された明治天皇が飯田家屋敷で休憩されました。
その時おばあちゃんは明治天皇の膝に抱っこされたそうです。
その記憶は鮮明に覚えていると生前聞かされていました。

